1899(明治32)年9月、キリスト教教育をできない中学校も、キリスト教教育のできる寄宿舎、2つの専修学校を含めて同じ組織である事を意味するため、この4つに共通して「立教学院」の名称を付けることになりました。それまで、全体統括していた立教学校総理ロイドは、立教学院総理となり、私立立教中学校は11月7日「私立立教学院立教中学校」への改称が認可されました。
なお、同じ敷地内にある三一神学校は、立教学院には含まれませんが、のちに開校する立教大学とは平行履修や教授の兼任など、関わりが続いていきます。
立教中学校は生徒数を増やしていきましたが、その上位校である立教専修学校は生徒数を減らし続け、1900(明治33)年、閉校してしまいました。東京英語専修学校は、順調に生徒数を伸ばしていたにもかかわらず、立ち退きを余儀なくされ、1903(明治36)年、閉校することになりました。
立教学院の学校は立教中学校だけになりましたが、その年の生徒数は520名にまで増えていました。また、高等学校の合格者も多くなり、進学校として人気を高めていきました。
1903(明治36)年4月、東京帝国大学に招聘されたロイドに代わり、第2代立教学院総理となったH.S.G.タッカーは、この年3月に専門学校令が制定されたのを機に、ウィリアムズ主教が望んだカレッジ、立教大学の設立準備に着手しました。
1907(明治40)年早々、大学のために新築された校舎が完成し、開校の準備は整いました。2階建てで、1階が大学教室、2階は約800人収容できる中学校と共用の学院講堂になっていました。
8月、「私立立教学院立教大学」が認可され、9月17日始業式が行われました。当時は専門学校でも予科を設ければ大学を名のることができたのです。大学令で正式に大学に昇格したのは1922(大正11)年です。
なお、立教大学開校の前年1906(明治39)年4月、清国人留学生のために「志成学校」(三一会館を利用、校長タッカー)を開設しています。この学校に関しては、あまり資料が残っておらず、1917(大正6)年頃まで続いたようです。
※写真は1907年5月19日、立教大学校舎兼学院講堂